「お寺ってなにをする場所なの?」
そう聞かれて明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか。お葬式やご法事をするときに行く場所というイメージを持たれる人も多いかもしれません。
「お寺は仏教の教えを広め、人々の心の苦悩をなくすためにある」と語ってくれたのは、浄土真宗本願寺派高善寺の僧侶である武田正文さん。武田さんは心理学の知見も交えながら、仏教の教えをわかりやすく伝える活動をされています。
現代を生きる多くの人が抱える「生きづらさ」。その生きづらさとはなにか、どのように考え、どのように向き合えばいいのか、仏教や心理学の観点からお話を伺いしました。
「お釈迦様は偉大なカウンセラー」仏教と心理学の共通点
──武田さんはお坊さんとしても、心理士としても働かれていますよね。まずは現在の活動について教えてください。
週の半分ぐらいはお坊さんとして、残りの半分はカウンセラーとして働いています。
お坊さんとしては、実家でもある浄土真宗本願寺派の高善寺で、お葬式やご法事のときにお経を読んだり、お寺の行事でご法話をしたりしています。
心理士としては、学校や企業で定期的にカウンセリングを行うことが多いです。あとは仏教や心理学をより多くの人に触れてもらうためにYouTube『武田正文の仏心チャンネル』やSNSなどを活用をして、発信活動にも取り組んでいますね。
──ご実家がもともとお寺だったのですね。心理学に興味を持たれたのはどのような理由からでしょうか?
仏教界が抱える問題を解決するのに役立つと思ったのがきっかけです。私は、小さい頃から「仏教が形骸化してしまっている」という問題意識を持っていました。
本来であれば、仏教は人の悩みや心の問題を解決する役割を担っているものです。ただ現代においてはその役割が薄れてしまって、「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されている。
これをどうにかしようと考えたときに、「心理学を使えば、仏教の教えをわかりやすく伝えられるんじゃないか」と思い、勉強しはじめることにしました。
──仏教と心理学……この組み合わせを意外に感じました。どのような点が共通しているんでしょうか?
なかなかつながりが見えてこない人も多いと思いますが、どちらも人間が抱える心の苦悩をなくすことを目的にしています。2500年前、お釈迦様は「対機説法」という一対一での対話をずっと行っていました。
目の前の人の苦悩に合わせて、仏教の教えでは「こういう考え方がいいよ」「こういうものの見方ができるよ」と伝えていたんですね。この対話の内容を書き起こしたのがお経です。
そう考えると、お釈迦様はカウンセリングや認知行動療法を行っていたんですよ。お経はそのケーススタディを書いたものなんですね。
だから一部の人たちからは、「お釈迦様は偉大なカウンセラーだった」と言われています。
──面白い!お釈迦様は偉大なカウンセラー!!
そうなんです。
お釈迦様が亡くなってからも仏教は発展して、心が澄むようなお寺の空間やお経という音楽、お香という香りなど、人の心を癒やすためのシステムができていったんです。
そういうシステムを科学的に証明していったのが心理学なので、仏教とは考え方だったり、やっていることだったりが非常によく似ています。
人間はみんな「死ぬのが怖い」
──カウンセリングを行っていく中で、仏教の教えを具体的にどのようにいかしていらっしゃいますか?
仏教には「生老病死(しょうろうびょうし)」という人間が避けられない4つの苦しみを表す言葉があります。「生まれること」「老いること」「病気になること」「死ぬこと」の4つです。
例えば、もう治らない病気にかかって余命を宣告された方やその家族の方のカウセリングをするときは、仏教の教えを知っていてよかったと思いますね。臨床心理学に色々な理論はありますが、正直これはもうどうしようもないんです。
回復のしようがない病気ですから、どう考えても落ち込むし、どう考えても不安になる。その苦悩を失くすというのは正直難しい。要するにロジックではどうやっても答えることができないんです。
そういったときに仏教ではどう考えるのかをお話しています。
──「生老病死」が人間の苦しみであるというお話がありましたが、いま「生きづらさ」を抱えている人の中には、ここに当てはまらない人もいるような気がします。
「生きづらさ」には本当にいろいろなものがあると思います。
でも「その生きづらさってなんですか?」と問われると、明確に答えられる人は少ないのではないでしょうか。要は実態がないものなんですね。
これは浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)聖人や心理学者のフロイトが言っていることで、人間はみんな「死ぬのが怖い」のです。例えば、人間関係が上手くいかなくて、生きづらさを抱えている人がいたとします。
ある集団に所属していて、そこで上手くいかない、ここから外されたらどうしようと不安に思っている。これは客観的に考えれば、人間関係の集団は山程あるので、いまいるところがダメだったら違うところへ行けばいいんですよ。
本当は大したことではないんです。だけど、みんなとても不安に思ってしまう。
なぜなら生存本能的に集団から追いやられるというのは、生きていけなくなることに結びつくからです。そういうDNAが人間には埋め込まれています。
この他の場合でも突き詰めて考えると、「生きづらさ」というものは全部「死ぬのが怖い」というものの上に成り立っているんですね。
──そっか、死ぬのが怖いのか……。
でも我々は、普段「死を直視しない」ようにしています。身近な人の「死」に立ち会ったことがある人は少ないのではないでしょうか。それに立ち会ったことがあったとしても、それほど頻繁にはないはずです。
だから「死ぬのが怖い」ということを忘れてしまうわけです。
それで実態のない不安や恐怖、焦りみたいな「生きづらさ」が生まれてきている。コロナで多くの人が慌てたのは、「死の恐怖」を思い出したからだと思うんです。「死」というものが身近にあるように感じて、「生きることとは、どういうことか」を考えだした。
──「死」が身近にあることで、どう生きるかを考える。ということは、普段から「死の恐怖」と向き合うことが重要ということでしょうか?
「死の恐怖を持って生きなさい」ということではありません。ただ「死」の捉え方を変えてみるといいと思います。ひとつお聞きしたいのですが、「死」と言われると過去、現在、未来、どの時間のことをイメージしますか?
──……未来ですね。
多くの人がそうだと思います。死は未来に訪れるものだと我々は思い込んでいる。
しかし本当は、「死」は現在起こり得るものです。交通事故に遭う可能性だってありますし、大きな災害が起こる可能性だってあるわけです。人間はいつ死んでもおかしくない。「死」が関係ない人はいない。
我々お坊さんがお葬式やご法事を行うのは、「死」と向き合う機会を提供しているとも言えます。本来は身近な人の「死」と向き合って、自分の生き方を考えるための行事です。
死の恐怖心を腹の底から理解できた人は、たぶん目の前にある小さな問題にあまり左右されなくなるはずです。
「生きづらさ」とはなにか? 一度立ち止まって考える
──「死」と向き合う。すごく難しいなと思っています。例えば、いま目の前の問題がどうしても気になって、「死」と向き合えない人はどうしたらいいんでしょうか?
なにかしらの問題を抱えてカウンセリングを受けに来た人がまず言われるのは、「いまこんな状態なんですけど、どうしたらいいですか?」ということです。この「どうしたらいいか」は、いきなりはわからないんですね。
仏教には「四諦(したい)」という考え方があります。四諦というのは、「苦しみがいまどうなっているのか」「その原因はなにか」「苦しみがなくなった理想の状態とはどのようなものか」「理想の状態にいくためにどうするか」ということ。この順番で考えることが重要です。
例えば「職場に嫌な上司がいる」という人の場合。「嫌な上司がいて、どうすればいいか」ではなく、まずは「上司のなにが嫌なのか」「上司が嫌になった原因はなにか」を考える。そして「どうなったらいいのか」を思い描いて、はじめて「どうするか」がわかるんです。
まずは現実と理想を明確にし、その差異はどうしたら埋まるのかを考えるということですね。
──「どうするか」というところにも仏教の教えはなにかあるんでしょうか?
これは「八正道(はっしょうどう)」という考え方があって、要は「一度止まりましょう」という教えです。なにか問題が起こっている人の頭の中は、「どうしたらいいんだろう」という思考でいっぱいです。
それで苦しみながら、動き続けてしまう。「こっちが正しいのか」「あっちが正しいのか」と正解を探してしまうんですね。
「一」と「止」で「正」という字になります。八正道というのは一度立ち止まって、正しくものを見て、正しく考えて、正しく言葉を使って、正しく行動するということ。心理学用語で言えば、認知行動療法に近い考え方です。
受け取り方やものの見方を、一度立ち止まって見直してみることが重要です。
──立ち止まることが重要、と。
心理学で言うと、マインドフルネスはいま注目されていますよね。これも立ち止まることです。
仏教で言えば、「手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えることを朝と夕方にやってみてください」とよく話しています。「南無阿弥陀仏」には、あなたのところに仏様が来て守ってくれるという意味が込められています。これを、なんとなくでもいいので「なんか守られている気がする」と感じながらやってほしいんですね。
「プラシーボ効果」「予言の自己成就」という心理効果なんですが、自分がこうなるかもしれないと思ったものが本当に現実に起こることがあります。例えば占いの順位がよくて、今日はいいことがありそうと思っていたら、本当にいいことがあるみたいな。
それと一緒で、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えて仏様が守ってくれるから大丈夫と感じれば、心を平穏な状態に保ちやすくなります。そこから仏様と対話しているようなイメージを持てるとさらにいいと思います。
──お釈迦様と対話する。
要は自分に対して絶対に否定的なことを言わない存在です。味方になってくれる存在。仏教を信仰していない人でも仏様が自分に対してものすごい批判的なこと言ってくるとは思えないじゃないですか。
そういう絶対的に自分の味方になってくれる存在をイメージするんです。その上で「こういう嫌な上司がいるんですけど」「その上司のなにが嫌なのです?」みたいに四諦を使って対話をしてみる。
そうやって一度立ち止まっていただければと思います。どうしても一人で立ち止まれない人は、信頼できる友達と話すとか、カウンセラーと対話をするとか、そういうことをするといいと思います。
「自己愛と依存の時代」自分を満たすものはなにか?
──「生きづらさ」を感じたときの考え方についてお話を聞いてきましたが、そもそも生きづらくならないために意識すべきことはなにかありますか?
いま自分のことを元気だと思っている人は、本当に元気なのかを考えてほしいですね。メンタルヘルスの業界では、これまでは「うつや罪悪感の時代」だったと言われていて、これからは「自己愛と依存の時代」と言われています。
この自己愛や依存にハマっていないかは、ぜひ振り返ってみてほしいです。例えばSNSで他者が発信している情報を目にして自分と比較をし、劣等感を抱いたり、焦りを感じたりすることがあると思います。これは自己愛が傷つけられているんですね。
そして自分もその人のようになろうと、たくさんの「いいね」がもらえるように、目立つ発信をする。たくさんの反応がもらえたら、自己愛が満たされたような気になる。
これは「SNS」に完全に依存してしまっている状態です。自分の内面が本当に満たされているわけではないのに、満たされた気になっている。そういう人はどこかで生きづらさを抱えるようになると思いますね。
──自分で自分の自己愛を満たせないから、なにかに依存をする。
そうです。これも四諦で考えてほしいですね。
「本当はなにを満たそうとしているのか」「なにが足りないと思っているのか」を一度立ち止まって考えてみる。そうすると実は依存する必要がないことに気づけることもあります。
ミニマリストや断捨離が流行ったと思いますが、これはすごく仏教的に理にかなかった考え方です。出家をするときって、布3枚とお椀1個しか持てませんから。これも依存を減らすことなんですよね。
依存先を減らすことで、実は満たされている自分が見えてきます。もちろんそれでも満たしたいものがある人は、満たせばいいと思いますが。
──なるほど。減らすことで見えてくるものもあるんですね。
あとは「元気でいないといけない」という考えを一度疑ってみてほしいですね。「バリバリ働けて、明るく元気な自分がニュートラルだ。不調はよくない」という認識は、仏教でいうとおかしいんです。
「諸行無常(しょぎょうむじょう」といって、万物に常(永遠)はありません。自分というものも常に変化しているので、調子のいいときもあれば悪いときもあります。それが当たり前なんです。
さらに言えば「一切皆苦(いっさいかいく)」といって、人生の全ては思い通りになりません。それを思い通りにできると思っているから、不調を感じるし、悩むんです。テクノロジーが発達した現代社会は、多くのことが思い通りにできるように思えてしまう。
しかし、どれだけ便利なものを使っていても人間の身体や心はやはり思い通りにならないものです。年をとって、病気になって、死んでいくというのは避けられません。
それを腹の底から受け入れられると、「自分はダメだ」と思っていて気づけなかった大事なものや幸せに気づけるようになると思います。そして、周りに感謝できるはずです。
なにせみんな大変じゃないですか、なにをしていても。十分頑張っているんですよ。それをお互いがもっと認めないといけないですよね。
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